あほの歩行者あほの歩行者宮城隆尋 何ともやってられん。私は目下自練に通っているのであり、学科教習というのは、 大方レーザーディスクの放映をただ茫然と眺めているだけでも終わってしまうのであ って楽ではあるが、その内容が何ともやれんのである。 というのも、事故の映像や模範的な運転の様子や、「スピード出すと死ぬよ」という 話や「シートベルトしないと死ぬよ」という話や「人轢くと轢かれた人は死ぬよ」という 話などはまだ良いのであって、「歩行者は偉いよ」というところが、やってられんので ある。歩行者は自練での教習など受けたことはないのであって、交通マナーなど知 る由もないのであり、道路交通法などもってのほかであるから、それを学習済みで ある運転者が事故を起こさぬよう注意しなければならぬゆえ、運転中前方または側 方に歩行者を発見した際はその歩行者がとるであろうあらゆる突発的かつ意味不 明な行動の可能性をあらかじめ予測しておいて、徐行もしくは一時停止する、など の対策が必要である、という内容なんである。何がやれんかって、その話の真意と いうのは、要するに歩行者はあほであって、あほのすることにいちいち意味などな いのであるから、命の危険もかえりみず、猛然と突進する自動車めがけて身を投げ るかの如く飛び出してきたりもするのであり、あまりあほを苛めてもあほはなぜ自分 が苛められているのかあほであるゆえにさっぱりわからぬゆえ話にならないのであ るからして、あほでない者があほの命を守らねばならぬ、という次第なんである。 確かに命にかかわる問題であるから、詳しく厳しくしつこくクドクドと繰り返すのもわ かるのであるが、歩行者とすれ違う際は1.5m以上間隔をあけろだとか、「前方に 停車中の車があれば、その陰には必ず歩行者がいて、必ず飛び出してくると考えま しょう」だとか、そうまでして執拗に歩行者がいかにあほであるかと熱弁を振るわれ ても、こっちは気が重くなるばかりで、今現在歩行者でもある私としては、何ともやっ てられんのである。 人の話を聞いてここまで遣る瀬ない気分になるのも久方ぶりであるが、教習が終 了してのち、とぼとぼと帰途に就いた私は原付に乗り、走行中もあほの歩行者に目 が行くのであり、あほであるゆえに飛び出したり轢かれに来たりしないかと終始びく びくしながら、家まで徐行したのである。何ともやってられん。 『Amp!』(沖縄国際大学文芸部 1999) |